2012年6月5日火曜日

大衆とはいったい誰のことを指すのか?

オルテガのいう「大衆」とはいったい誰のことを指すのか?

これについて、「誰」との答えは、オルテガは明確には出していないように思う。僕が思うに、「大衆」とは抽象化された概念だ。その時代に流れる気の流れとも言おうか、大きな時代の潮流のようなものを指しているのではないか。

大衆というと、貴族がいて、大衆がいる。だから、身分の高いものが貴族で、それ以外の被支配者側が「大衆」ということになる。これは一面的には正しいのだが、これが正しい分類の仕方とも言えない。

なぜならば、ただ身分が高いだけで、道徳や教養を身に着けておらず、自由の中に身を置き、好き勝手やっているのはオルテガの言う「貴族」ではないからである。逆に、高い道徳心や教養があり、自身を律することができる者は、仮に社会的な身分が低くとも、それはオルテガの言う「貴族」に当てはまるだろう。

大衆論というのは、貴族と大衆の関係性が崩れたことにより、起こった現象を論じたものである。貴族というのは、自分を律することができ、大衆を引っ張っていくことができる者。そして、大衆というのは、自分で自分を律することができない、貴族に引っ張られて動く者を指す。

だから、必ずしも身分の高低で決まるわけではないのである。むしろ、オルテガはベルサイユのバラのストーリーに出てるような頭の中がお花畑な貴族を批判している。さらに言えば、現代的なアメリカのセレブなども、大衆論の中では大衆に分類されるだろう。

大衆とは、特別な能力を持たない者であり、それ以外の少数派が特別な能力を持ち、少数派が特権階級に位置し、人々を文化的に人道的に経済的に引っ張っている。

この関係がヨーロッパで崩れ去り、大衆が跋扈し出したのが19世紀であり、それが大衆論に繋がるのである。

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