2012年6月11日月曜日

自由を謳歌する現代の人々

オルテガは、大衆とは「自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、それに苦痛を覚えるどころか、他の人々と道一であると感ずることに喜びを見出している人」「自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々」と言っている。

つまり、善い意味でも悪い意味でも、大衆は何ものかになろうとはしないのである。

一方、選ばれた少数者とは、「たとえ自力で達成しなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人」のことだと言っている。

また、「自らに多くを求め、進んで困難と義務とを負わんとする人々」とも言っており、現代的に分類すれば、いわゆるリーダーとそうでない者と分けることもできるだろう。

しかし、事態はそれほど簡単ではない。

現代においては、リーダー的立場にある人間のほとんどが大衆側に属しており、この大衆論そのものはそれについて警笛を鳴らしている。

なぜ、現代のリーダーの多くは大衆側であるのか。それは、オルテガのこの言葉からも類推できる。

大衆とは「生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々」だという。

日本はその昔、階級社会であった。有名なのは士農工商(官吏、百姓、職人、農民)がある。

なぜ、このような身分制度があったのか。日本人の多くには、歴史でも習うように、当時は幕府による圧政があり、厳格に身分が分けられ、当時の人々はそれに苦しんでいた、、、といったイメージがあるであろう。

しかし、これには大きな過ちがある。現に、古文を読めば、当時の人々の思想の自由であったり、精神的な豊かさが多分に伺える。また、江戸時代の外国人(欧米人)の視点から見た日本とその人々の生活ぶりや文化的なところ、経済状況などをまとめた名著「逝きし世の面影」では、江戸時代の民衆が、物質的な貧しさを押しのけて、いかに文化的で人間的な生活を楽しんでいたか、そして人々の気の良さが伺える。

こういった書物を見ると、どうにも物資的に豊かになった"現代の方が貧しい"ように思える。それは、大衆(現代の日本人やアメリカ人やヨーロッパ人なども)が物質主義、進歩主義であるからだ。

新しいものが何ものよりも良しとされ、古きものは何ものでも悪とされるのである。だから、現代では「革新的」「最新」「流行」「イノベーション」といった言葉がしきりに出され、それが最上の価値としてもてはやされるのである。

だが、われわれは常に古いものがあって、今があるのである。例えば、今使っている言葉も古いものの積み重ねなのである。言葉だけではない、全ての学問が古いものの上に立っている。だから、古いものに敬意を払い、それらを学び取ることこそわれわれに必要なのだ。

しかし、大衆はそんなことなどお構いなしなのである。なぜならば、先にも述べた通り、「生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続」である彼らにとって、古いものがどういう形をしているか?誕生の起源は?現代にどうリンクしているのか?といったことなど、興味がないからなのだ。そんな古いことよりも新しいことに目が行っているわけだ。

だから、われわれは尽きることのない欲望で常に新しいものを欲し続け、その我欲には きりがないのである。

この通り、大衆は自己を抑制できない子供のようなのだ。子供は 一般的に 欲望のままに動く。大人や先生など、律する人がいなくなると、途端に大喜びではしゃぎだし、好き放題勝手放題にやり、その自由を謳歌するはずである。その行動には限度がない。われわれ大衆にもその限度がないのである。

だからこそ、選ばれた少数者である「自らに多くを求め、進んで困難と義務とを負わんとする人々」が必要であり、彼らが大衆を律する立場に立つ必要があるのだとオルテガは言っているのだと思う。

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