2012年6月13日水曜日

新しいものが正しいとされる世界

大衆は新しいものを求めるということを以前の記事で述べた。彼らは、常に流行のものを追いかける物質主義、進歩主義者であると。

これについて、「進歩主義で何が悪いのだ」というご意見もあろう。僕自身、そういった考えがこれまでにあったし、改善や工夫が美徳であるという考えは今でも持っている。

だが、彼らが自動車やスマートフォンなどの文明の利器には興味を示すが、それらを支えている科学には何ら興味をもとうとしない。そればかりか、彼らはそれらを理解することを端から捨てることでさらなる物質的進歩を謳歌しようとした。

それは何かというと、科学の専門分野化、細分化である。それによって、どのようなことが起きたか。

科学者、医者、技術者といった専門家ですら、無知になってきているのである。いや、彼らは自分の小さな小さな細分化された専門分野に関しては、深い知識を持っている。しかし、それを一つ飛び越えるだけで 全く知らない領域になり、無知になるのである。

全体を知らないということは、気を見て森を見ずということであり、物事を俯瞰して見ることが出来ない。また、学問においても、スキルの習得が優先され、原理や観念が厳かにされてしまっているのである。自分が取り巻いている環境を疑い、歴史や根本的原理から学び、生の全体を知ろうとしない彼らは大衆なのである。

これが、進歩主義、物質主義の弊害だ。どんなものよりも、新しいものだったり、物質的な豊かさだったり、目に見えるものや形に残るものであるものでしか計ることの出来ない貧しい物差ししか持たぬ大衆が選んだ生き方なのである。

そして、そのような浅はかな生き方は、いずれ破綻を招く。

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