2012年11月22日木曜日

なぜ参議院は必要なのか?

昨今の日本では衆議院の定数削減や参議院の廃止が叫ばれている。維新の会の船中八策がまさにそうだ。というより、世論がもう随分前からそういう方向にベクトルが傾いていて それに乗っかる形で現民主党や維新の会、みんなの党がそれに追随しているというのが実情だ。

では、なぜ議員削減が世論の主流なのか?それは単純な話で、「ムダの削減」というイデオロギーが日本を支配しているからだ。公務員削減、公共投資削減、事業仕分け、等々 昨今の政府はコストカットに余念がない。その延長線上としてこの問題が上がってきているだけなのだ。

だが、議員削減の前に議論されるべきは「参議院の必要性」ではないか。単にフワフワとしたイメージで、政治家は悪だし税金のムダだから減らしたほうがいいとか、決められない政治はダメだから減らした方がいいとか考えていないだろうか。そういうイメージだけで実情を知らずに世を動かしていくことは危険だ。

そもそも、なぜ参議院(上院)が存在するのか。議会制民主主義の歴史を紐解けば、貴族院から脈々と続いている参議院は確かに必要だったからそこで産声を上げ、今でも世界中で重要な政治システムとして残り続けているのだ。決して大衆が考えるような「ムダの象徴」といったような単純な話ではない。

では一体、参議院はなぜ必要なのか。世論と離れたところで「政治」を行うためである。俗にいう「民意」というのは、空気だけで出来上がったデタラメで気分屋で日和見主義的なところがある。例えば、社会保障を叫ぶが増税には反対するのがその典型だ。普天間の問題でもそうだろう。県外を要求しながら自分の県での受け入れを覚悟している国民などほとんどいないのである。

このように民意とは相矛盾する主張を平気で悪びれもなく並び立てるデマゴギーなわけだ。だからこそ、民意と距離をとったところで政治を動かす人物が必要だ。だが、通常政治家というのは選挙がある。選挙ではどうしても民の直接の声を聞かねばなるまい。マニフェストなどその典型だ。だが、先程も言ったように国益を考えるなら時に民の声に反してでも 国家の将来を考える人物が必要なのだ。

そこで参議院が重要な役割を果たしているのである。参議院は衆議院よりも任期が長い。これはある種 大衆が毛嫌いしている特権でもあるのだが、しかしこの特権があるからこそ彼らは民意に左右されすぎることなく 安定して政治を行うことができる。

この両院制という仕組みは一見 非効率のように見えるが国を正しく導くにはとても重要な役割を担っている。よく考えてみて欲しいのだが、国家運営というのは会社と違って5年10年持てば良いという短期的なものではならない。何百年と生き続けねばならない。過ちはそうそう許されるものではないのだ。だからこそ、民意というデマゴギーに流されて 全体主義的に早急な判断を下すべきではない。ねじれと言われようが、石橋を叩いても渡らないくらいの慎重さが必要なのだ。

しかし、この両院制の意義も現在ではかなり弱体化している。特に2005年の郵政選挙の時にその脆弱ぶりが露見された。当時、小泉元首相は郵政民営化法案を衆院で僅差で通し、参院では否決された。この時点では両院制は機能していた。

だが、その直後 小泉元首相は「民意を問う」と言い郵政解散を強引に行った。結果、自民党が大勝し、郵政法案は衆議院で可決、参議院では否決されるかと思いきや「民意に従う」と賛成票を入れる議員が続出し、結果 可決されてしまった。

参議院が死んだ日である。

だからと言って、両院制というシステムを破壊して良いということにはならない。そもそも議会制民主主義とは民が議員を選挙で選び、選ばれた議員は「議会」で「議論」し政策を決定していくものだ。現在のようにマニフェスト選挙だとか言って、民が直接的に政策を決定するのではない。

それでは単なる直接選挙だ。我々の政治システムはサル山の猿が手を挙げて政策を官僚的に決めていくのではなく、間接選挙をし、選ばれた政治家達がしっかり議論をしながら政策を精査し、高めていくことが必要なのだ。

にも関わらず、小泉氏は議会で一度決定されたことを覆し、解散をするという暴挙に出た。もはや参議院の死以前に議会制民主主義の冒涜である。

結果、全体主義的に世の中が盛り上がり 小泉内閣の独裁を許した。

このことからも分かるように、両院制というのは全体主義と接続されやすい民主主義を抑えこむための叡智が詰まってできているのだ。そんな大切なものを決して破壊してはならない。

2012年6月14日木曜日

「規制緩和」がもたらしたもの

京都大学教授の藤井聡先生の新著「コンプライアンスが日本を潰す - 新自由主義との攻防」を読了。

2001年に日本中が熱狂した小泉竹中政権下での「新自由主義」思想をもとにした構造改革。これらの構造改革の弊害を振り返り、それが現代の日本においてどのような影響を及ぼしているかを解き明かしている。

現代の日本では、頻繁に「コンプライアンス(compliance)」というカタカナ言葉がビジネスシーンで叫ばれている。これがいかに日本人にとって毒であるかが本書では語られている。

例えば、そのひとつの例として、「タクシー業界」がある。タクシー業界は、2002年の「小泉・竹中政権」の下で大改革が行われた。

有名なのが、タクシーの台数規制を撤廃する「規制緩和」である。この改革が断行される思想の元になったのが、新自由主義だ。

新自由主義とは、「自由な競争があれば、品質の悪い商品は淘汰され、良い商品だけが適正な価格で売られるようになるはずだ」という考えに基づいるのは自明だ。だから、自由競争にすれば全てうまくいく、と彼ら新自由主義的な学者や政治家、経済人は思うわけである。

さらに、「自由競争のメカニズムを邪魔するものは、抵抗勢力である政府である」としている。ですから、よく言われるような「小さな政府」「官から民へ」「規制緩和」といったスローガンはある意味で一貫し続けている。

そして、タクシー業界も、新自由主義思考にもとづいて改革が断行されたのだ。その結果、タクシーの台数が増えすぎて、運転手の給与はどんどん下がり続け、平均年収200万円を下回り、沖縄などの一部地域では年収90万円といった異常事態が起こった。

労賃が下がれば、労働者は少しでも多く稼ごうと長時間働くことになる。僕の友人のお父さんにもタクシーの運転手をやっている人がいる。話を聞けば、お父さんには申し訳ないが、その労働環境は最悪である。

その会社を例に出させていただくと、こうだ。
・20時間ぶっ通しで働いたあと丸一日休む
・給料は月平均 手取りで12万円(歩合制)
・連休、有給休暇はなし
・労働組合は存続するが、会社よりである為、実質無いに等しい

このような状況では、病気したり入院したりした時、死活問題である。いや、緊急性の問題がなくても平時において常に生活の危機にさらされていると言っても良いだろう。

もちろん、全てのタクシー会社がこのような労働体系ではなく、あくまでも一例である。しかし、上記にも述べたように、タクシー運転手の平均賃金は200万円という数字からしても、これは稀有な例とは言えない。

このように待遇が悪ければ、タクシー業界に若者が就職しなくなる。だからいま、急激に高齢化が進んでいるのである。

そして、上記のような労働環境ではろくに身体や精神をいたわることもできないため、事故も多発する。現にタクシーの事故は増え続けているのだ。

ただ、これだけ規制を緩和したのだから、競争が激化し、値下げ競争に各社が踏切り、タクシー料金が下がるだろうと、思われる。新自由主義者たちが掲げる理想論からすれば、それは必然なはずある。

しかし現実に起きているのは、東京などの都心を中心に置きているタクシー料金の値上げ運動で、価格が上がっているのだ。つまり新自由主義者が掲げた理想とは、真逆のことが起こっているのだ。

規制緩和は、従業員の労賃が下がり、事故率が上昇し、料金まで上がる。さらには、都心を中心に大渋滞が巻起こっているのも規制緩和によるものだ。

この恐るべき規制緩和が、一部の業界にかぎらず、あらゆるほとんどの分野で起きているということを本書では明らかにされている。現代を知るために必読の書である。

2012年6月13日水曜日

新しいものが正しいとされる世界

大衆は新しいものを求めるということを以前の記事で述べた。彼らは、常に流行のものを追いかける物質主義、進歩主義者であると。

これについて、「進歩主義で何が悪いのだ」というご意見もあろう。僕自身、そういった考えがこれまでにあったし、改善や工夫が美徳であるという考えは今でも持っている。

だが、彼らが自動車やスマートフォンなどの文明の利器には興味を示すが、それらを支えている科学には何ら興味をもとうとしない。そればかりか、彼らはそれらを理解することを端から捨てることでさらなる物質的進歩を謳歌しようとした。

それは何かというと、科学の専門分野化、細分化である。それによって、どのようなことが起きたか。

科学者、医者、技術者といった専門家ですら、無知になってきているのである。いや、彼らは自分の小さな小さな細分化された専門分野に関しては、深い知識を持っている。しかし、それを一つ飛び越えるだけで 全く知らない領域になり、無知になるのである。

全体を知らないということは、気を見て森を見ずということであり、物事を俯瞰して見ることが出来ない。また、学問においても、スキルの習得が優先され、原理や観念が厳かにされてしまっているのである。自分が取り巻いている環境を疑い、歴史や根本的原理から学び、生の全体を知ろうとしない彼らは大衆なのである。

これが、進歩主義、物質主義の弊害だ。どんなものよりも、新しいものだったり、物質的な豊かさだったり、目に見えるものや形に残るものであるものでしか計ることの出来ない貧しい物差ししか持たぬ大衆が選んだ生き方なのである。

そして、そのような浅はかな生き方は、いずれ破綻を招く。

2012年6月11日月曜日

自由を謳歌する現代の人々

オルテガは、大衆とは「自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであると感じ、それに苦痛を覚えるどころか、他の人々と道一であると感ずることに喜びを見出している人」「自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々」と言っている。

つまり、善い意味でも悪い意味でも、大衆は何ものかになろうとはしないのである。

一方、選ばれた少数者とは、「たとえ自力で達成しなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人」のことだと言っている。

また、「自らに多くを求め、進んで困難と義務とを負わんとする人々」とも言っており、現代的に分類すれば、いわゆるリーダーとそうでない者と分けることもできるだろう。

しかし、事態はそれほど簡単ではない。

現代においては、リーダー的立場にある人間のほとんどが大衆側に属しており、この大衆論そのものはそれについて警笛を鳴らしている。

なぜ、現代のリーダーの多くは大衆側であるのか。それは、オルテガのこの言葉からも類推できる。

大衆とは「生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々」だという。

日本はその昔、階級社会であった。有名なのは士農工商(官吏、百姓、職人、農民)がある。

なぜ、このような身分制度があったのか。日本人の多くには、歴史でも習うように、当時は幕府による圧政があり、厳格に身分が分けられ、当時の人々はそれに苦しんでいた、、、といったイメージがあるであろう。

しかし、これには大きな過ちがある。現に、古文を読めば、当時の人々の思想の自由であったり、精神的な豊かさが多分に伺える。また、江戸時代の外国人(欧米人)の視点から見た日本とその人々の生活ぶりや文化的なところ、経済状況などをまとめた名著「逝きし世の面影」では、江戸時代の民衆が、物質的な貧しさを押しのけて、いかに文化的で人間的な生活を楽しんでいたか、そして人々の気の良さが伺える。

こういった書物を見ると、どうにも物資的に豊かになった"現代の方が貧しい"ように思える。それは、大衆(現代の日本人やアメリカ人やヨーロッパ人なども)が物質主義、進歩主義であるからだ。

新しいものが何ものよりも良しとされ、古きものは何ものでも悪とされるのである。だから、現代では「革新的」「最新」「流行」「イノベーション」といった言葉がしきりに出され、それが最上の価値としてもてはやされるのである。

だが、われわれは常に古いものがあって、今があるのである。例えば、今使っている言葉も古いものの積み重ねなのである。言葉だけではない、全ての学問が古いものの上に立っている。だから、古いものに敬意を払い、それらを学び取ることこそわれわれに必要なのだ。

しかし、大衆はそんなことなどお構いなしなのである。なぜならば、先にも述べた通り、「生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続」である彼らにとって、古いものがどういう形をしているか?誕生の起源は?現代にどうリンクしているのか?といったことなど、興味がないからなのだ。そんな古いことよりも新しいことに目が行っているわけだ。

だから、われわれは尽きることのない欲望で常に新しいものを欲し続け、その我欲には きりがないのである。

この通り、大衆は自己を抑制できない子供のようなのだ。子供は 一般的に 欲望のままに動く。大人や先生など、律する人がいなくなると、途端に大喜びではしゃぎだし、好き放題勝手放題にやり、その自由を謳歌するはずである。その行動には限度がない。われわれ大衆にもその限度がないのである。

だからこそ、選ばれた少数者である「自らに多くを求め、進んで困難と義務とを負わんとする人々」が必要であり、彼らが大衆を律する立場に立つ必要があるのだとオルテガは言っているのだと思う。

2012年6月5日火曜日

大衆とはいったい誰のことを指すのか?

オルテガのいう「大衆」とはいったい誰のことを指すのか?

これについて、「誰」との答えは、オルテガは明確には出していないように思う。僕が思うに、「大衆」とは抽象化された概念だ。その時代に流れる気の流れとも言おうか、大きな時代の潮流のようなものを指しているのではないか。

大衆というと、貴族がいて、大衆がいる。だから、身分の高いものが貴族で、それ以外の被支配者側が「大衆」ということになる。これは一面的には正しいのだが、これが正しい分類の仕方とも言えない。

なぜならば、ただ身分が高いだけで、道徳や教養を身に着けておらず、自由の中に身を置き、好き勝手やっているのはオルテガの言う「貴族」ではないからである。逆に、高い道徳心や教養があり、自身を律することができる者は、仮に社会的な身分が低くとも、それはオルテガの言う「貴族」に当てはまるだろう。

大衆論というのは、貴族と大衆の関係性が崩れたことにより、起こった現象を論じたものである。貴族というのは、自分を律することができ、大衆を引っ張っていくことができる者。そして、大衆というのは、自分で自分を律することができない、貴族に引っ張られて動く者を指す。

だから、必ずしも身分の高低で決まるわけではないのである。むしろ、オルテガはベルサイユのバラのストーリーに出てるような頭の中がお花畑な貴族を批判している。さらに言えば、現代的なアメリカのセレブなども、大衆論の中では大衆に分類されるだろう。

大衆とは、特別な能力を持たない者であり、それ以外の少数派が特別な能力を持ち、少数派が特権階級に位置し、人々を文化的に人道的に経済的に引っ張っている。

この関係がヨーロッパで崩れ去り、大衆が跋扈し出したのが19世紀であり、それが大衆論に繋がるのである。

2012年5月23日水曜日

西部邁のススメ

僕がオルテガを読むに至ったのは、僕がいつも愛読させてもらっている西部邁先生の著書で度々 オルテガの話題が出てきていたからだ。

西部先生は ご存知の方も多いと思うが、日本を代表する保守思想家である。東大教授を経て、現在は在野で学問を教えておられる。経済学だけにとどまらず、思想、哲学、社会学など幅広い。そして、この人の話は何よりおもしろい。

「人生読本」「難局の思想」など彼の著書は一生懸命読んだ。いかに自分の知識が狭く、感性も鈍いかを痛感させられるが、先生のような智者とこうして会話(本を通して)できることを心から嬉しく思っている。

オルテガを読み始めてわかったことだが、西部先生の発言が今になってようやくわかったことも数々ある。時代の気流がどのような方向に流れ、それがどういった災を呼び起こしているのか。オルテガと西部先生の話を照らしあわせてみるとよく理解できる。

オルテガは、あくまでも抽象的に、どのような時代の人間が読んでも理解ができる言葉で書かれている。一方で 西部先生は、現代の日本人に向けた言葉で書かれている。

オルテガの大衆論をより深く理解するのであれば、西部邁の著書は絶対に必読である。